昭和46年5月21日 朝の御理解

御理解第53節 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ」



 「あれもおかげであった、これもおかげであったということが分かるよううになる」と言うこと。了解がいくようになる。そこに信心者のいわば、信心をする値打ちというものがあると思うですね。
 「あれもおかげであった、これもおかげであった」と。信心してこのことはおかげ頂いたけれども、このことは、えー、おかげじゃなかったというようなものではない。その全てがおかげであると。
 それが、分かるようになる。自分でそれが実感出来るようになる。ですから、その人の上には、困ったということで、嫌なことはなくなってくるわけですね。
 事実はそうなのですけれども、私共は自分に都合の良いことになってくるとおかげと思い、自分に都合の悪いことは、やはりおかげでないというように、思うわけです。ね、それではやはり、次に頂かせてもらう信心。いわゆる神恩報謝の生活、まぁ半分になってしまうわけであります。
 半分は有り難いけれど、半分は有り難くないというのですから。せっかくの神恩報謝の生活が半分の感謝の生活である。半分は、まぁ何とはなしに不平であり不足であり、の生活ということになるのです。これではやはり、私はおかげ受けられないですね。
 本当のおかげになってこないと。「あれもおかげであった、これもおかげであった」と分かるようになり。
 昨日、御祈念、朝の御祈念の終わって、(皆さん?)そろそろ帰られた頃に新潟の「いこう?」先生がご信者さん二人連れてお参りになった。それで私もその下がりましたから、後でお茶でもあげながら、まぁ色々話たんですけれども。
 教祖様のお伝記の中に、神様と教祖様との、まぁ中に取り返されておることにやはり、例えば、普通でいうなら悲しいこと。又は苦しいこと。そういう事実に直面しておられる教祖様がです。そのことを、おかげといい、又は自分の不行届きというておられるところですね。
 お子様が亡くなられ。二人のお子さんが疱瘡にかかられた。一人は(ようそのかい?)もなく亡くなられ、一人は、まぁおかげで助かられた。そういう時に、亡くなられたのは私の信心の不行届きとしてお詫びをなさっておられる。そして、助かられた方の方は、ね、神様のおかげで助かったとして、お礼を申しておられる。
 そこのところに、天地の親神様が教祖様に対して、この方はおもいわけがよい、というておられる。この方は、なかなかおもいわけがよい。おもいわけがよい、しかも有り難い方へ有り難い方へおもいわけておられる。
 助からなかったのは、困ったこと、難儀なこと、悲しいことになったのは、私の信心の不行届きとしておる。助かった方は、もう全てが神様あなたのおかげとして、頂いておられる。
 ね、やはり天地の親神様、そのことを、この方はおもいわけがよいと。そこのところをです、私に、古賀先生が言われるんですよ。先生最近そこんところを拝読させて頂くたんべんに、合楽の信心の素晴らしさにいよいよ驚きますというておられます。どういうことだと思われますか。
 これは先日の日田の支部のご大祭の時に、頂きましたことでございましたけれども、やっぱり、(そりゃ?)そこでお話をさせて頂きましたことの中では申しませんでした。というのは、ちょっと私が人情を使ったんです。
 日田の教会の総代さんという方が、お参りになっておられましてね、あの時には。それでまぁある意味でほとほとと感心されたのじゃないでしょうか。まぁ日田の方達、綾部さんを中心とする信心の、まだ一人余りだというのに、このようなことが出来るというのですから、ある意味でびっくりされたのでしょう。
 しかも、(あそこいう?)もうびっしり廊下まで、つめかけたご信者さん方の様子を見られたわけでも、驚きだったでしょう。そして、伊万里の竹内先生のお話しを頂くということにいたっては、またいよいよ感心されたでしょう。
 一生懸命に、まぁ先生の言われることを、控えておられる所ですけれども、控えをおれれなかったから、ね、竹内先生に(あなたとな?)お話しの原稿を貸して下さい。とあの場で言われたそうですから、いうならこれを差し上げましょうというて、その原稿を頂いて帰られたというほどし。
 ね、だからよっぽど、講師に対してその、原稿を見せて下さい。貸してくれといわれるほどしですから、感心されたのに違いありませんですね。その話の内容というか。ね、その中にね、竹内先生が。私は母親の腹の中からの信心を頂いておられる。
 ね、段々、長ずるにしたがって、信心の(なにたるか?)ということを分かるようになってまいりましたら、ね、現在の金光教の信心で、どうも分からない。いうならあき足らない。そこで全国、あちらの教会は大きな教会。ここには、お徳のあられる先生と聞くともうそれこそ、一日その教会にお引き寄せを頂いては、信心を求められたけれども、自分が与えられるものがなかった。
 ね、そして、たまたま、今さっきほど話しました。古賀先生のお導きです。ちょうど古賀先生が合楽で、当時の椛目で修行しておった当時でございました。
 どうしたことだったか、私があの当時、いわゆるほどんと、いわゆる門外不出。もう外に出(てもらうなんて?)いうようなことまずなかったのに、3回参ったけれども、3回とも親先生にお目にかかることは出来なかった。
 4回目に初めてお参りさせて頂いて、その時に頂いた、御理解が、今もなお、鮮明に自分の心の中に残っております。そして、思いました。私が尋ね求めておる信心はここだった。これであった。これは当時の椛目ですね。
 いわゆる現在は、合楽の親先生こそ金光大神と思うようになったというようなことをお話しになりましたですね。皆さんもお聞きになった通りです。
 もう穴があるなら入りたいような、私は(ぞうに?)聞かせて頂いた思いがしたんですけれども、そのようないわゆる頂き方。ね。そういう頂き方が、出来たということはです、ね、竹内さん、人情を捨てて、神情でいけという御理解を頂いたと。
 信心をさせて頂くなら、ね、人情を捨てて、神情に行き抜けという御理解を頂いて、以来こうして合楽に信心の稽古に通うておる、合楽の信心に帰依されたという話をしておられましたですね。
 私も、その後に、ちょっと、御挨拶変わりのお話しさせて頂いて、そのことを、神様に頂いたんですけれども、私がちょっと人情を使うて、それこそお話しをしなかったというのは、日田の教会の今の総代さんがお参りになっておられる。日田の教会あたりでは、もうこれは甘木が親教会ですから、それこそ甘木の親先生は、もう日田の方達のためには金光大神である。
 いうならば、もう日本一の私共の師匠の(師匠?)にあたる、甘木の初代というのは、もう生神様のようにして、頂かれた。その生神様のような安武先生が、どう教えられたかというと。ね、一切が天地の親神の御物だと教えられた。
 私共もそれを頂いて参りまして、それを決して嘘とは思いません。ところが私は、その日の、あの、神様から頂きましたご神意ではね、★御物の時代は過ぎたと。ね、金光教の信心も、やはりそういう、変わってくるわけですね。
 根本は同じであっても、その表現が変わってくる。いわゆる、世界中を相手に布教しようといったようなことになってくるに従って、もう御物の時代では助からない。御物の時代では(不可能?)。
 あー、その、何処にでも布教するというわけにはいかん。だから、ね、御物の時代は過ぎた、これからは御事柄の時代だと、頂いた。
 いわゆるそのことをお話ししたいと思ったけれども、そこには、御物の時代を思い込んでおられる方達がおりましたから、んーならまた刺激をあたえてはならないといったら、人情を使って。後であんな人情いらんことだったと思ったんですけれども、( ? )今日ま、だから聞いて頂いておるわけであります。
 確かにそうです、もう御物の時代は過ぎた。ね、これからの、いわゆる、新金光教とでも申しましょうか。新しい金光教というのは、もう御事柄の時代になかねばならんという、ことをです、昨日古賀先生が参りましてから、そのことをいうんです。
 金光様が、ね、なら教祖金光大神様と、天地の親神様との間にとりこわされておられる、ね、亡くなられたお子さんのことを私の信心の不行届き。助かった方の子供のことは、ね、神様のおかげで助かったとお詫びをし、またお礼を申しておられる、そこに天地の親神様は、この方はおもいわけの良いと、まぁほとほとと感心されるわけです。
 ね、私はここんところが、いわば、拝読させて頂くたんべんにです、ここのところは、合楽の場合はもうおもいわけといったようなものではないと。だからここんところは、本当は、ね、いわゆる天地の親神様はおもいわけというておられるけれども、本当は、あれは、御事柄をです、大事にするという合楽の信心の中心をいわばなすようなものなんですよね。成り行きを大事にすると。
 いわゆる最近は、事柄の上に御の字を付けよと。一切を神様の御働きの現われなのだから。その御事柄を大事にする。というところには、おもいわけ以上の、おもいわけとでも申しましょうかね。いわゆるおもいがけ以上のいわば頂き方なんです。
 おもいわけ以上の頂き方。おもいわけんでもいい。もうそのこと自体がおかげとして、御事柄として、神様の御働きとして頂くという事。私はあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになる、とこう言うておられる。
 ね、私はね、そこんところがおかげを頂いておるなぁ合楽はと思うんです。ね、いわゆる一切が神愛と。「あれもおかげであった、これもおかげであった」と分かるようになる。私その、分かるようになる。了解するようになる。ね、そこのところを私共は、繰り返し繰り返し、なるほどおかげであるなという頂き方が出来るところにです、これはその次の事柄になってまいりますと、ね、それが全てのおかげの原動力になる。
 おかげを受けたい、おかげを受けたいと。言うても、そのおかげの原動力になるものがない。ね、優しくもうちっと分かりやすくいうとです、此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられる、もう苦労なしの世界がそこから開けてくる。
 だから、むりありに喜びで受けよというのではなくてです、何故喜ばんなならないかという事を、ここでは分かるという事を、了解と書いておられますね。何故喜ばねばならないかと。そこんところが了解が行くようになる。そこでやはり信心の稽古、いわゆる勉強が必要であることが分かりますね。そこんところが了解出来れる信心にならせて頂く。
 私共、ここ二十年間の例えば信心を振り返ってみましてもです、ね、本当に「あれもおかげであった、これもおかげであった」と思わなればおられないことばっかりなんです。ね、腹の立つ問題もあった。苦労におわれるようなこともあった。難儀なこともあったけれどもです、ね、その難儀とは、困ったことの一切が私共の場合は、これを神様の御都合として頂いて来た。
 ね、そしたら、なるほど神様の御都合であった。どういう御都合であったか、というとより大きく、より豊かなおかげを下さろうとする御都合であった。その都度に合楽は大きくなっていった。という事になるんです。
 ね、ですから、信心させて頂くと、段々そこが分かってくるようになると、かこの一切が生きて来るという事。ね、過去、あれという事は過去のことです。あれもおかげであったというか。
 本当にあん時にあげなことがなかったなら、今もうちっと増しだけれどもなんていうようなことなくなっていく。ね。ね、あのことのおかげでという事になっていた。ね、過去の一切のことが生き生きとして、それがおかげである、いやおかげであったというよりもおかげの原動力になるものであったということになる。
 ね、これは、ここで言うおかげは形に見えるおかげですね。形に見えるおかげの原動力にあった。それは目には見えないおかげ。言わば肉眼で、見るとそれは困ったこと、難儀なことにようてように見れておった。そこんところをここでは「信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多き」とこういう。ね。
 その目に見えぬ、おかげこそがです、次の大きな、いわゆる原動力になる。神様のご発動を流すものになる。ね。この辺のところを皆さん一つ本気で分かっていかなきゃ。
 神様のご発動、天地が発動まします。私の為に合楽のために。天地が発動まします。ね、発動というのは、発動機の発動ですよ。ね。それはもう、ね、言葉やら、では表現できない。いわばすさまじいまでの働きになる。
 神、天地の発動を受けることは。ね、もう素晴らしいおかげというのはね、ただお願をしたからおかげを頂いたといったようなおかげでは、ただそれだけのことなんです。ね、けれども、天地の発動が。天地の発動を受けるという事になった時です、そこには、もういわゆる、あれよあれよというほどしのおかげになって来る。
 神の発動。その神様の発動の元をなすもの。原動力になるもの。それは私共が、目に見えないところにあるおかげをおかげと実感した時。それを有り難いとお礼を申し上げた時。そういう事が、そのげん、天地の発動をうなだすことになるのです。
 皆さんだから、どうでも、今困っておる難儀なこと。そのことをですね、難儀な(ことの?)せずして、神様がね、より力を下さろうとする働きだと有り難く受けにゃならんという事が分かるでしょう。もうすさまじいまでのおかげになってくるためには。
 先日ある方が、あるお伺いをなさってた。ね、★「小さな意味ならよし、大きな意味ならあし」と頂いた。良し悪しというのは、良し、悪しというのがありましょう。(ほ植物?)にね、(  ?  )にあります。よしというか、まぁあしというのもある。
 その良しと悪しとをね、あのご心眼に頂いてからこの御理解を頂いた。小さい、今あんたがお願をしておることがね、いうなら、小さい意味合い。いわゆる目先の意味合いに、目先のおかげの意味でならば、それはお許しを頂くことである。おかげになる。
 ね、けれどもね、ここをもう一つ辛抱しぬかせて頂いて、大きな意味のおかげになるためにはです、それは今のあんたが思うておることは悪しなんです。悪しとはいけないという意味なんです。
 ね、さぁもう一つここでがんばって、ここで一辛抱するか。それとも、なら目先のちょっと楽にならなけ、よりいけんなら、その方どちらをお願いしてもいい、私は。というたんです、ね。
 もうどっちでもおかげはおかげ。けども片一方は、目先のおかげ、片一方は先々の大きなおかげになる。為にはここをもうひと辛抱させてもらわにゃいけん。
 しばらく考えておられましたけれども、それでは、どうぞ一つ、大きな意味においてのいわば、私が今思うておることを、もう一遍神様にお返しして、そして新たにです、新たな意味で、そのことに取り組ませて頂こうというて、あの、帰られたんですけれどね。
 だから私ともがね、目に見えるおかげ。よりも目に見えないおかげが多いと言うておられるところを一つ分からにゃいけんです。ね、目に見えるところのおかげは小さい。目に見えないところのおかげは大きい。その大きい方のおかげを私共が頂かせて頂くという事を今日は、私はね、天地が発動ましますという意味ね。
 そこには、どういう事になるでしょうか。まぁ例えていうなら、ね、昔は御米を、つくのに臼の中に入れて、それでこうやって、ついて精白しましたですね。
 戦時中何かは、一升瓶の中に入れてこうこうやってから、棒で突いてから、お米を、さぁ一升のお米を精白するのに、どれほどしの、その動力がいったか。ところがどうでしょう。それを精米というんです。それこそ一票ぐらいのお米をつぐのはあっという間ですよね。そういう具合に違うんです。
 目先のおかげをおかげと。自分の思う通りになったことだけがおかげぐらい。自分の思うようにならないことはおかげでないような思い方では、何時まで経ってもです、一升瓶の中で米つくようなもんです。
 ね、そこでです、目に見えないところの、目に見えないおかげの方が大きいと仰る、その大きいところのおかげをです、おかげと分かる。ここでは了解の出来れる信心。目に見えないところのおかげを、おかげと了解させて頂けれる信心。
 そこに天地の発動をうなだすことが出来る。今の例でいうと、いわば発動機にかけて、精米、精米でお米をつくようなもの。ね。私は合楽にご縁を頂いておられる皆さんに、どうでもその、お互いに自分の家の上にもです、身の上にもです、ね、神様のご発動を頂いておると思わなければおられないほどしのです、おかげを受けて欲しいと思う。
 それでも痛いこともある、痒いこともある。目先のこと。ね、そのことのお取次を頂いきながらです、お取次を頂きながら、目に見えないところの神のおかげというものをです、了解出来る、分かる信心を頂いて頂くために、本気で信心の稽古をさせてもらおう。本気で信心の修行をさせて頂こうという事にならなければ、目に見えないところのおかげが分からんのです。ね。
 目に見えないところのおかげが分かる。信心をすれば目に見えるおかげより、目に見えないおかげの方が大きいと仰る。その大きい方のおかげを頂かにゃいけん。ね、ところがそれは実際は目には見えない。目に見えないどころか、かえって困ったことのように思う。そういう事態というものをです、私共が本気でそれを直視するというかね。
 そのことを本気で見つめてみるとです、それもやっぱりおかげだなぁ、いややっぱりどころじゃない。本当により力を下さろうとする働きだなぁと分かる。そこに勇心が生まれてくる。ね、そこから、今まで人間の力をもってして、出てなかった力が生まれて来る。
 この頃、竹内先生のお話の中にもありましたですね。私、あーちょっと忘れましたけれど、例えば人間には、大体、えー、百の力があるんだと。けれどもそれをね、表し得るのは、まぁ四分の一ぐらいしか現していないち人間は。皆。
 ね、だからそれを現し得る力を自分で頂こうとしないからなんです。それを、なら具体的に今日は、今日の御理解から頂きますとです、目に見えないおかげ。目に見えないおかげをおかげと分かる精進努力こそがです、ね、私共の持っておる力を、十二分の、とまではいかんでもです、ね、四分の一しか分からんとが、半分分かるようになり、ね。ね、百の力のものが、せめて八十でも現すことが出来、分かることが出来るという事になったらです、対したこと、いわゆるなるほど神様じゃなぁというおかげになってくるんです。合楽の場合なんかそうなんです。
 私がもういよいよ商売も出来なくなって、えー、もう修行がたい、続いております頃でした。私が北京時代の酒屋のお友達で、久留米の(おくんが?)の7丁目ですか、6丁目ですか。「ミネ?」さんという、酒屋さんがあります。
 やっぱりあちらへ、酒屋をしておられたですから、私が余りにも困っておりますもんですから、まぁ色々私のこと心配して下さった。
 ある時、わざわざ来て頂いて、今度お父さん、私達の酒屋仲間で、デパートの丁度、井筒屋の裏でした。五服というかな。五の服とかなんとかその、この販売会社、酒の販売会社をその、おこそうと思うた。でもあんたなら一番最適(にんじゃ?)じゃから、そこの、まぁ支配人核で入ってくれんか。給料はこれこれだけは出せれる。もう私にとってはもう飛びつきたいようなお話でした。
 ね、ところがもうその頃は、非常な、その金光様の先生になろうとは思ってもいませんし、えー、もう出来ることは商売。しかも商売の中、酒の(?)ことより他に知らんのですから、もう本当に、(当たりにふね?)というような感じでしたけれども、その頃はもう神様に色々ご神意を伺うことが出来るようになっておった。
 それでもう、その「ミネ?」さんとしても、もう私が飛びついて喜ぶと思われて、たらしいんですけれど。ちょっと待って下さい、まぁ神様にお願して、お伺い、お伺いでなんてん、することがいるもんのあんたもう、ここでいっちょあんたが、まぁ運命を打開しなければ、と私の為に、( ? )まぁ力説して下さったんですけれども、まぁその直ぐ、即答せずに、ご神意を頂いて、また( ? )又返事に参ります。
 したら神様は、あー、それは辞退しとけという事であった。だから、そん時にその目先のその素晴らしい、私ここに(もん?)がむいてきたというような気持ちで飛びついておったらですね、それは小さい意味なら良しであっただろうとこう思う。
 それを断るという事は大変きついことであったけれども、ね、断らせて頂いておることが大きな意味において、はあしであった。ね、そして、ならあの、以前の椛目があぁして、開けることになり、合楽に繋がるおかげになってきんたんですね。
 私が今、あの時に、昔の酒屋さんに帰ったところでです、ね、どれほどしのことが出来たであろうか。それはただ人間の精進とか努力とかで、一升瓶の中で米をつくようなことが出来ただけのことなのだ。
 ね、神様の発動を流すという事は出来なかった。ね、ところが私の上に、私、いわば椛目合楽を通して、神様のご発動が始まるほどしのおかげになった時にです、信心のない日人でもなるほど神様じゃなということになるほどしの、ひれい、おかげになって来たわけであります。
 ね、それはどういうことかというとです、ね、目に見えるおかげよりも、目に見えないおかげが分かるようになって来た。了解が出来るようになってきたからなのです。ね、だからこそ、合楽ではですね、いわゆる御事柄を大事、成り行きを大切にということになってきたんです。
 御事柄を大切にするということ。ね、いわゆる神様のご神意を中心にして、動くということなんです。神様、いわゆる神様本意の生き方を、人間本意のものではない。神様にも御都合のある事であろう。神様も、にも、より神様がお働きよい場というものを、お作りになっておる時だと分からせて頂いて、おかげを頂いていく時に、あれもおかげであった。これもおかげであった。
 ですから、(前日?)そこに起きてくる問題もです、おかげじゃのといえるわけなんです。先生どうしましょうか。こういう困ったことが起こって来たというて、お届けに見えましてもね、おかげやろ、ちこう言えるわけです。
 はーもう親先生もうどうしょうか、ちうて、はー、もう私がひやひやちうてから手をたたけれるのもそれなんです。そこを通らせて頂かなければ、神様の本当のご発動を流すことはできない。そういう力を今こそ分からせてもらう。
 目に見えないところの大きなおかげを今こそ分からせて頂く、絶好の、いわばチャンスにめぐまれておる時だから、私がひやひやちうてから、手たたいておるのを、わけが分かるでしょう。
 ね、いうならば目先目先のおかげを皆さんにお渡しする、皆さんはその時喜ぶ。ね、けども、それが続いたのであってはです、それこそさるかに合戦じゃないけれども、ね、その時だけがおかげと思うのであって、そのおかげのおかげで、又かえって自分の身を滅ぼすようなことにしかならないのがおちなんです。人間は。
 ね、ようするに神様が、本当に信心しておかげを受けてくれよと仰るようなおかげ。それにはまず神様のいわば、ご発動をうなざすほどしの原動力になるほどしの、おかげを頂くという事。
 そこは、目に見えるおかげより、目に見えないおかげのところを本当におかげと分かる信心。そういう研究、そういう勉強を事実の問題を、に、こうふんまえての稽古。ね、日々起きてくるその問題を、ふんまえての稽古。そして、はーなるほどおかげじゃなと分かる。
 ね、それがわかってくるようになる時にです、過去の一切が生きてくる。ね、私(がいよる?)例えば、58歳であるなら、58歳のね、もう一切が生きてくるわけなんです。ね、私が生まれて60ぶりにね、ね、例えばおお火傷をした。体全身、ね。
 そして、この身このような身、なら見にくい傷になった。ね、もうそれ、例えばもうそのことすらがです、私にとっては大変なおかげなんですこれね。だから本当に火傷をさせて頂いたのであり、有り難いことになってきたわけなです。
 ね、過去が一切生きてくる。又過去を生かすという事がです、神様お喜びである証拠に、次の神様のいわゆるお働きを、十二分にならしめるような、ね、神様のご発動を受けることが出来ると。
 ね、そういう例えば頂き方が出来るようになると、それが本当の信心。それが本物の信心じゃとうことなんです。
 どうぞ、「信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い」大きいと。ね、又はおかげの方が多いと。その多い方、その大きい方を私共がおかげと分からせて頂くために、私共は信心の稽古をさせて頂くのです。
 ね、そこから「あれもおかげであった、これもおかげであった」と了解が出来るようになる、分かるようになる。いわゆる私共は本当の、本物の信心を身に付けていくためにです、その辺のところをね、一つ研究しなければいけんと思うですね。
 それを実際の問題をふんまえてです、ね、実感として、それがなるほどおかげであるというおかげになしていかなければなりません。そこから頂けれるおかげを神様願いとしておられるのでございますから。私共の願いも、やはりそこにおかれなければ嘘ですね。どうぞ。

梶原 佳行